
谷中、上野桜木は、上野の山を成す上野台地に続く坂が多い町。坂を上り下りするにつれて、また新しい風景が現れます。

東京藝術大学の裏手から根津へと下る三段坂
Q: 現在の谷中、上野桜木の町について、伺いたいのですが。
ギャラリーはありますが、画商はすでにいませんね。商売にならないから畳んでしまいました。この界隈は、本来は武家屋敷などが多くあった屋敷町で商売にならない所です。最近では上野桜木2丁目のフランス菓子のお店や谷中銀座あたりは、いつも大変な来客ですが、他の既存の店は縮小していっていますね。
Q: 台東区や、谷中、上野桜木のコミュニティや街の雰囲気は、いかがですか。
内山台東区長の時代には、住民参加型のコミュニティが作られましたね。その頃の町会は役員にならないと動けなかったのですが、なりたくてもなれない人がいっぱいいました。アウトサイダーでも活躍できる場を作ろうと努力して、私も30年近くも参加して、町会以外の仕事も手伝って、皆が子供やお年寄りとの交流も大事にしています。
谷中や上野桜木の町並みは、ほとんど変わりませんが、大きい家は小さくなってアパートが多くできましたし、言問通りの昔のお店はほとんど無くなりました。戦後、昭和40年(1965)頃までは、煎餅屋、乾物屋、駄菓子屋、蕎麦屋、寿司屋、骨董屋、鰻屋、氷屋などと軒を並べていましたが、人口が減って、売り上げも減ってしまいました。一方で最近は谷中霊園の近くに商店が色々できてきました。昔ながらの寺町から完全な住宅地になってしまい、上野桜木と名前がつくと地価が高くなるようになりました。昭和24、5年(1949-50)頃までは寛永寺さんに地代を払っていましたが、後に寛永寺さんから土地を買い取りました。(右段に続く)

街角の至る所に、緑があります。
この界隈の通りは変わってませんね。言問通りあたりから東京藝術大学まで広い道路を作る計画はあるようですが、広くすると谷中の町が壊れてしまうので反対しました。また10年程前は、上野桜木会館(上野桜木1丁目)を駐車場にする話もありました。会館は、コミュニティ委員会の管轄です。その隣の風土菓の桃林堂はうちよりは新しいのですが、関西の本店から来ていたおじいちゃん、おばあちゃんが相次いで亡くなって、本店から新しい人が来てやっています。表通りにはビルが立ち並んでしまいました。バブルがはじけてなければ、谷中はもっと侵食されていたかもしれません。東京都からは「谷中全体をどうするのか、住民がうまく決められれば道を広げずに、今の街並みを残しましょう」と言われているのですが、なかなかうまく運びません。「広げた時の地権者の利益はどうするんだ」と主張する人もいるので。私は、住宅整備も大切ですが、コミュニティを大事にした人作りをしたいと思います。
Q: 地元の文化遺産や、その保存への動きはいかがですか。また、地域文化については、いかがですか。
地元は意外に無関心だと思います。彫刻家の平櫛田中の旧居がどこにあるかすら知りません。谷中やこの界隈が良いと初めに言い始めたのは、ここを訪れたり、住んでいる外国人たちです。
文化は本来目に見えないものですから、主観が入ります。百人いれば百人考えが違うものです。でも強い考えを持つ人に「谷中の文化はこういうものだよ」「こういう方向に文化を残そう」と言ってもらえるとありがたい。それに沿って、ものが決まると思います。でも今は横一線になっちゃってほとんど出てきません。誰かが音頭をとる必要がありますね。上野公園の東京都美術館の改修工事が終われば、大規模な美術展や展示会も帰ってくるだろうと思います。画家や作家には「上野が良い、帰ってきたい」と言う方が多くいますから。

東京藝術大学の裏手から根津へと下る三段坂