2018年3月20日掲載
2018年3月20日掲載

隅田川の花火、そして舟遊びは、江戸の時代から人々の愉しみでした。


提灯を灯した屋形舟が、灯りを水面に映しながら出航していく夕景

歌川広重(安藤広重)「名所江戸百景 両國花火」安政5年(1858) (国立国会図書館蔵)
当時の大橋(現両国橋)、隅田川に浮かべた多くの屋形舟からの花火見物の大勢の観客が描かれています。

 

歌川豊国「江戸風俗錦絵 両國夕涼之図」(部分、国立国会図書館蔵) 

 

歌川豊国、広重「江戸自慢三十六興 両こく大花火」元治1年(1864) (国立国会図書館蔵) 

 

 

第二次大戦時に中断していた両国の川開き花火は、昭和23年(1948)に柳橋料亭組合により「両国花火組合」が戦前同様に再結成されて復活しました。当時、柳橋の料亭は張り出し桟橋に川床を設け、舟を並べ大勢の見物客で賑わいました。(吉田幸雄氏撮影、舟宿小松屋蔵)

 元禄11年(1698)に、神田川が隅田川に注ぐ地に掛けられた橋は、当初は「川口出口之橋」と呼ばれていましたが、享保年間頃には柳原堤の末にあったため、いつしか柳橋と呼ばれました。江戸時代から橋畔には船宿が建ち並び、賑わっていました。幕末・明治以降は、柳橋(現台東区柳橋)界隈は花柳界として知られ、多くの文人・墨客の題材ともなっています。小林清親の「元柳橋両国遠景」、正岡子規の句集「寒山落木」、そして島崎藤村は現在の柳橋一丁目に住み、随筆「新片町にて」や小説「沈黙」に大正期の柳橋界隈を書いています。また池波正太郎の「剣客商売」等に取り上げられて、今も江戸時代の趣を探して多くの人が訪ねています。柳橋は、明治20年(1887)に鉄橋に架け替えられましたが、昭和4年(1929)に現在の独特の姿の橋になりました。



橋には、花柳界の華やかさを偲ばせる簪(かんざし)が刻まれています。
 

柳橋近そばの石塚稲荷神社は、花柳界として賑わった往時の面影を寄進者の名前に留めています。

歌川広重(安藤広重)「名所江戸百景 両國花火」安政5年(1858) (国立国会図書館蔵)
当時の大橋(現両国橋)、隅田川に浮かべた多くの屋形舟からの花火見物の大勢の観客が描かれています。

 

歌川豊国「江戸風俗錦絵 両國夕涼之図」(部分、国立国会図書館蔵) 

 

歌川豊国、広重「江戸自慢三十六興 両こく大花火」元治1年(1864) (国立国会図書館蔵)