江戸時代に壮大な寺領を有していた東叡山寛永寺は、幕末の戊辰戦争の際に境内に彰義隊と新政府軍が戦った上野戦争により、伽藍の多くが焼失しました。また大政奉還後に成立した明治政府により寺領の多くは没収されましたが、明治12年(1879)に寛永寺の復興が認められて、川越の喜多院より本地堂が移築され、山内本地堂の用材も加えて根本中堂として再建されました。現在は、3万坪の敷地に根本中堂のある本寺の他、焼失の難を逃れた清水観音堂、輪王寺門跡御本坊表門、徳川将軍霊廟勅額門等があり、重要文化財に指定されています。清水観音堂は、江戸時代からの面影を残した数少ない本堂とも言えます。(下段に続く)

上野戦争を描いた絵馬(左)と砲弾(右)
当時、佐賀藩が所有していたアームストロング砲に類する砲弾ではないかと言われています。現在、佐賀大学等による調査が行われています。
江戸幕府十五代将軍徳川慶喜は大政奉還の後、鳥羽伏見の戦いに敗れて江戸へ戻りました。東征軍(新政府軍)や公家の間では、徳川家の処分が議論されましたが、慶喜の一橋家時代の側近達は慶喜の助命を求め、慶応4年(1868)2月に同盟を結成し後に彰義隊と称して、上野山(東叡山寛永寺)に立て籠もりました。慶応4年5月15日の朝、大村益次郎が指揮する東征軍は上野を総攻撃しました。
彰義隊士の遺体は三ノ輪円通寺(現、荒川区南千住)の住職仏磨等によって当地で茶毘に付されました。現在、上野公園内に残る彰義隊の墓の正面の小墓石は、明治2年(1869)に寛永寺子院の寒松院と護国院の住職が密かに付近の地中に埋納したものが後に堀り出されたものです。大墓石は、明治14年(1881)に元彰義隊士小川興郷(椙太)等によって造立されました。彰義隊は明治政府にとっては賊軍であったため政府をはばかって彰義隊の文字はありませんが、旧幕臣山岡鉄舟の筆になる「戦死之墓」の字が大きく刻まれています。平成2年に台東区有形文化財として区民文化財台帳に登載されました。

彰義隊の墓(台東区有形文化財)