
浅草花やしき
浅草花やしきは、演芸、芸能の中心地浅草に、嘉永6年(1853)に開園した日本最古の遊園地です。造園師森田六三郎によって、牡丹や菊細工を展示した植物園「花屋敷」として開園されました。浅草寺裏手の奥山に位置する花屋敷は、江戸時代から浅草寺参拝客等で賑わいました。明治時代には浅草寺の敷地は浅草公園として整備され、花屋敷もその規模が縮小されました。大正から昭和初期には、花々と共に動物も展示され、日本の動物園のルーツの地ともなっています。現在は「浅草花やしき」と改称され、日本に現存する最古の還暦(60年)を迎えたローラーコースターや浅草の町を一望できるBeeタワー等の人気のアトラクションで賑わっています。(台東区浅草2-28-1)
昭和35年(1960)に「人工衛星塔」として登場して以来56年間、浅草の町を一望できることから人気を博していたアトラクション「Beeタワー」は、施設スペースの有効利用のため、平成28年(2016)に廃止されました。

浅草の町を一望できるBeeタワーは、人気のアトラクションです。 (平成28年(2016)廃止)
浅草花やしきは、江戸時代から浅草寺の参拝客等で賑わった奥山にあります。江戸時代、奥山には大道芸人が集い、また芝居小屋等が多くありました。嘉永6年(1853)の設立時は、牡丹や菊花等を展示する花園「花屋敷」でした。開園当時は、8000平方メートルに及ぶ広大な植物園でした。後の明治6年(1873)、浅草寺は太政官布告により浅草公園と改められ、さらに明治17年(1884)には7区に区画されました。浅草寺の寺領が浅草公園に改められると共に、花屋敷は五区となり、動物も展示し、また遊戯施設も併設する日本の動物園のルーツの地となりました。そして遊園地へとその形を変えていきました。明治20年(1887)には木造瓦葺きの五階建ての奥山閣(鳳凰閣)が建造され、屋上には木製金箔の鳳凰が置かれていたため、鳳凰閣とも呼ばれました。浅草のランドマークであった凌雲閣(浅草十二階)と共に、浅草の人気のスポットのひとつとなりました。
大正から昭和初期には、花屋敷は国内有数の動物園となりましたが、大正12年(1923)の関東大震災時に被災し、飼育されていた動物の多くが薬殺されました。また第二次世界大戦が近づくと共に動物園は閉園しました。昭和14年(1939)には買収され、名称も「浅草楽天地」と改められましたが、昭和16年(1941)には松竹に買収されて合資会社浅草花屋敷となり「劇場楽天地」として経営されました。戦時下に閉園し荒れ果てていた花屋敷は、第二次世界大戦後の昭和22年(1947)に新たに遊園地「浅草花やしき」として再開されました。昭和28年(1953)には日本に現存する最古のローラーコースター、そして昭和35年(1960)に浅草の町を一望する人工衛星塔(後のBeeタワー)が設置され、現在も現役として人気を博しています。
Beeタワーは施設スペースの有効利用のため、平成28年(2016)に廃止されました。
浅草寺の歴史については「浅草寺に詣でる─浅草寺に聞く」をご覧下さい。

浅草花やしき
浅草花やしきは、演芸、芸能の中心地浅草に、嘉永6年(1853)に開園した日本最古の遊園地です。造園師森田六三郎によって、牡丹や菊細工を展示した植物園「花屋敷」として開園されました。浅草寺裏手の奥山に位置する花屋敷は、江戸時代から浅草寺参拝客等で賑わいました。明治時代には浅草寺の敷地は浅草公園として整備され、花屋敷もその規模が縮小されました。大正から昭和初期には、花々と共に動物も展示され、日本の動物園のルーツの地ともなっています。現在は「浅草花やしき」と改称され、日本に現存する最古の還暦(60年)を迎えたローラーコースターや浅草の町を一望できるBeeタワー等の人気のアトラクションで賑わっています。(台東区浅草2-28-1)
昭和35年(1960)に「人工衛星塔」として登場して以来56年間、浅草の町を一望できることから人気を博していたアトラクション「Beeタワー」は、施設スペースの有効利用のため、平成28年(2016)に廃止されました。