2007年11月1日掲載
2007年11月1日掲載

一葉の才気と自負がしのばれます。


一葉記念館の二階から一階を見る。
 

一葉が妹くに(邦子)に書き与えた習字手本

 一葉は、明治5年(1872)に幸橋(現千代田区内幸町日比谷界隈)に樋口則義と多喜の次女として生まれ、奈津と名付けられました。幼い時から速読と記憶力に長け、曲亭馬琴の「南総里見八犬伝」を三日で読んでしまったとの逸話や兄たちが新聞を読むのを真似た声色を使った様がまるで大人が新聞を読むようで皆が驚いた程であったと、妹くに(邦子)は書き残しています。
 明治16年(1882)5月に青海(せいかい)学校を飛び級で卒業しましたが、年上の同級生に混じって成績は五番、さらに小学高等科第四級に進んで同年12月に首席で修了しましたが、母の「女子に学問は不要」という意見により、余儀なく退学しました。後に父の勧めで、明治19年(1885)歌塾「萩の舎」に入門を許可され通うことになり、これを期に一葉の文学への熱意と才能は目覚めたとも言えます。


上野御徒町に転居後に入学した池之端の私立青海(せいかい)学校小学高等科第四級の卒業証書(明治16年(1883)12月)、首席で修了。(山梨県立文学館蔵)

「詠草」(明治24年(1891)12月から25年(1892)8月の作、全15葉。文中の朱筆の評と訂正は、歌塾「萩の舎」を主催していた中嶋歌子の筆。

明治20年(1887)2月「萩の舎」発会記念写真、最後列左から3人目が一葉、第2列中央が中嶋歌子。(山梨県立文学館蔵)

中央が一葉(14歳)、他の門人の貴顕(貴族などの身分の高い人)の子女達と晴れ着も持ち合わせない自身との格差を痛感しましたが、この年最初の歌会では、一葉の詠じた歌が並み居る同輩をしのいで最高点を取っています。

一葉の転居当時の明治26年(1893)頃の下谷龍泉寺町大音寺通り(現茶屋町通り)、中央の白地の札が見えるあたりが一葉宅。この町並みの手前に三島神社、通りの奥には新吉原へ続くはね橋がありました。(考証、上島金太郎・塩田良平・和田芳恵)

一葉記念館の二階から一階を見る。 

一葉の転居当時の明治26年(1893)頃の下谷龍泉寺町大音寺通り(現茶屋町通り)、中央の白地の札が見えるあたりが一葉宅。この町並みの手前に三島神社、通りの奥には新吉原へ続くはね橋がありました。(考証、上島金太郎・塩田良平・和田芳恵)