2017年1月1日掲載
2017年1月1日掲載

日本での新たな西洋絵画の表現は、新たな挑戦でもありました。


東京文化財研究所の塩谷純さん 

東京国立博物館広報室の宮尾美奈子さん

東京文化財研究所の塩谷純さん、東京国立博物館広報室の宮尾美奈子さんにご案内頂きました。平成28年(2016)7月に取材しました。
 

黒田記念館 設立の経緯について

 
Q:黒田記念館の設立の経緯についてお話し頂けますか。
 
塩谷 : 当館は、東京文化財研究所の前身である美術研究所として建てられた施設です。美術研究所は、日本近代洋画の父と称される黒田清輝の意思により設立されました。大正13年(1924)に亡くなった清輝は、自分の遺産の一部を日本の美術界のために役立てて欲しいと遺言しました。それを受けてイタリア美術に造詣が深い美術研究家の矢代幸雄が、美術図書館、美術研究施設を設立してはと提案し、昭和5年(1930)に設立されました。本館の建物は、昭和3年(1928)に創建されました。清輝の功績を記念して黒田記念室を設け、清輝の作品を展示しています。(右段に続く)
 

トルコ帽の自画像(明治22年(1889)、画像提供元:東京文化財研究所)

 

フランス留学当時、黒田清輝、左からウォルター・グリフィン、クラレンス・バード、久米桂一郎(明治24年(1891)撮影、画像提供元:東京文化財研究所)

 

画室の一隅(明治22年(1889)、画像提供元:東京文化財研究所)
当時、清輝が移り住んだパリ・ヴォージラール街の部屋

 

鎌倉の別荘にて(大正期(1912-25)頃、画像提供元:東京文化財研究所)

黒田記念室について

 
Q:黒田記念室を紹介頂けますか。
 
 黒田記念室の室内の造形や装飾は、1920年代から30年代頃の美術館建築の様式を伝えています。本館の設計は岡田信一郎ですが、岡田は清輝も教鞭を執った東京美術学校の教員でもあった建築家です。岡田は古今東西の建築史に精通していたと言われており、歌舞伎座、明治生命館の設計も手掛けています。本館の外装には創建当時に流行していたスクラッチタイルが、全面に貼られています。正面入口にはギリシャ神殿風の円柱を設け、西洋の古典的建築に範を採っています。今日の美術館建築では壁面全体を白色にした、いわゆるホワイトキューブが多いのですが、黒田記念室の室内では当時の美術館建築の様式に則って周囲に腰板が貼られています。それから、大きな特徴として天井に窓を設けて光を取り入れる構造になっています。この窓の装飾も見事です。創建当初は自然光を取り入れておりましたが、現在は作品への影響も考慮して人工照明に代えています。
 
Q:展示されている作品等についてお話し頂けませんか。
 
 このイーゼルは清輝が使用していた物です。明治40年(1907)頃のアトリエの写真では、このイーゼルを前にした清輝が撮影されています。記念室の作品は常設展示ではなく随時替えていますが、清輝の作品を時代を追って概観できる展示を行っています。現在は、フランスに留学しておりました時期の作品から帰国した時期の作品を展示しています。例えば、こちらの「昼寝」と題された作品は、帰国後に日本の風俗を改めて見つめた作品とも言えます。清輝の使命のひとつとして、西洋美術をいかに日本に根付かせるかという事がありましたが、日本人にも馴染みやすい風俗をモチーフに、西洋の表現技術を用いる事で、その目的を達成しようと試みています。ただ清輝は明治末以降は様々な要職に就いたので、他の作家に比べると寡作で、特に晩年には小品が多いですね。(下段に続く)
 

画室用イーゼル、椅子、そして絵具箱(東京文化財研究所蔵)

 
Q : 日清戦争時に描かれたスケッチもありますね。戦地に赴いていたのでしょうか。
 
 日清戦争時に戦地には赴いてはいますが、従軍記者という形で後衛に控え、その中で日常の様子を描いていたのでしょう。戦闘風景については、日記を遡ってみると前線には赴かず、戦闘の後に赴いたり、取材して描いていたようです。(下段に続く)
 

金州城内の新聞記者宿舎内部の図(明治27年(1894)、画像提供元:東京文化財研究所)

 
Q : 普段は屋外ではスケッチが主だったのでしょうか。スケッチ帳は、何冊程残されているのでしょうか。
 
 おおよそ30冊程あります。屋外でイーゼルを立てて描いている写真も残されていますが、屋外では普段はスケッチし、その後にアトリエで油絵としていたのではないかと思います。 (次ページに続く)


東京文化財研究所の塩谷純さん 

東京国立博物館広報室の宮尾美奈子さん