Q.旧岩崎邸は、長い時間をかけて増改築されたようで、図面からは大変広大なのですが、現存しているのは、この洋館と和館の一部だけですか。
松井: 洋館と和館の一部だけが残っています。戦後に米軍に接収されて、その後昭和28年(1953)に国の所有になり、その後法務省の管轄になり裁判所の書記官研修所として利用されました。敷地内には、和式住宅は部屋数40から50部屋ほどあったのではないでしょうか。研修生が2年間寄宿して学び、そして全国の裁判所などに散っていく。それが19期生までですかね、30数年間ほどずっと使われました。ところが戦後、裁判所の職員が不足した時期に、職員を増やす事になり、いくら大邸宅でも収容できなくなり、大きな建物を建てなくてはとなり、和館のほとんどを取り壊してしまってビルに変わってしまいました。それが昭和44年(1969)ですね。それでも収容できなくなって、今度は平成6年(1994)に和光市に移転し、その移転費用を捻出するために、この敷地を一部売却してしまって、当時の3分の1ほどになってしまいました。ですから、久彌氏が造った明治を代表する芝庭と洋館の取り合わせである和洋併置式の庭園が、米軍接収、そして法務省管轄の時期からすべて壊されて行ったのですね。(下段に続く)
かつての岩崎邸全景
洋館西側から繋いだ壮大な和館がありました。往時の敷地の広大さがしのばれます。(河東義之氏「ジョサイア・コンドルと鹿鳴館時代」講演会より)


現在残存する洋館西側に続く和館は、当時は20棟ほども立ち並んでいたと言われる建物のごく一部です。
この芝庭が、研修所の時代には400平米のトラックになってしまいました。芝庭には一面の高麗芝が敷かれて、園路があり、捨石がありまして、これが一、二坪ほどもあるような巨石で、これを持って景観を造っていたのですが、それがトラックを造るには邪魔という事で、石も退かし、灯篭も撤去されて芝庭がほとんど破壊されてしまいました。庭園の黒松もキャノン時代に射撃の練習の的とされて被害にあってほとんど枯れてしまいました。ですから、残念ながら現存している芝庭部分は当時の遺構が少し残っている程度です。暫定整備の状態といいますか、庭園としての体裁は不十分と言わざるを得ないです。
Q.周辺はビルばかりですが、その時代に切り売りされた敷地に建っているのでしょうか。
そうですね。湯島ハイタウンや様々な建物が建ち混みましたね。往時は約1万5000平米もありましたから。庭の部分は名残がありますが、もう土地自体が無くなっていますので完全な復元は到底無理な話ですね。非常にもったいない。戦後の日本史のどうしようもない経過の結果ですから、あきらめないといけないでしょうが。(右段に続く)

敷地は分割分譲されてしまい、今ではかつての敷地には高層ビルが建ち並んでいます。

旧岩崎邸屋上からの展望(非公開)
手前は、洋館玄関ホールの尖塔
Q.当時の岩崎家の調度品などは残っていますか。
それが分らないのです。三井クラブなどは接収から返還された際にはそのまま戻されたのですが、旧岩崎邸はある意味没収ですから、おそらく色々な家具や調度品は相当な物があったと思いますが、それらがほとんど無くなっています。現在、書斎にある書架は、熱海の別邸の倉庫に接収前に避難していたものですが、久彌氏は本が好きで大変な蔵書があったようですが、そういう物の多くは熱海の別邸の倉庫に接収前に避難されています。本庭園を開園した際も、家の中に調度品が無いのは家ではないと言う人もいましたが、まるっきり見当たりません。後になってから岩崎家四代目の寛弥氏が「良く管理されているが、寂しい」と言われて、そういえば熱海の別邸に書架があったから寄贈しようと尽力頂いて元の場所に戻ってきました。当時の食器類も一部接収前に持ち出した物が東京会館に保管されていて、その中からバカラの食器なども最近寄贈して頂きました。そのようにして調度品が徐々に増えていっているのですが、残念ながら寛弥氏が平成20年(2008)7月にお亡くなりになりました。私は平成13年(2001)の開園の際に赴任していましたが、寛弥さんのアドバイスが無ければ維持管理なども含めて出来なかったですね。その年は、そのような意味で大変辛い年でした。調度品類では、たとえば食器がバカラで、ではシャンデリアが何だったのか。それ相応の物があったのではないでしょうか。因みに迎賓館はバカラのシャンデリアですが、今となっては分らないですね。(次ページに続く)

後に岩崎家から寄贈された書架