01. 上野駅東西自由通路建設地点の遺跡(うえのえきとうざいじゆうつうろけんせつちてんのいせき)
上野公園5
東京都上野公園内は上野忍岡遺跡郡として縄文時代~近世の遺跡が広がり、江戸時代には寛永寺境内地であった。本遺跡は上野台地の東南の縁辺に位置し、北東に東京文化会館構内・国立西洋美術館構内の遺跡が分布している。当地は近世には寛永11年(1634)から寛永寺子院の常照院(じょうしょういん)が存在していたが、1678年に凌雲院(りょううんいん)が移転してきた。凌雲院の境内は当地から東京文化会館と国立西洋美術館まで続き、18世紀中頃以降は徳川御三卿(田安・一橋・清水家)の墓所となっていた。国立西洋美術館構内の発掘調査では清水家の墓が発見され、東京文化会館においても墓が発見されている。
当地は平成10年(1998)に東西自由通路(現パンダ橋)建設に伴い調査を実施した。調査地の北東側に17世紀頃の「段切(だんぎり)状遺構」(雛[ひな]壇状の区画)が検出され、また「地下室」等も見られ常照院に関係するものと推測される。その後北半分は整地されて墓所となっており、19世紀頃の板石組の石槨墓(せっかくぼ・5基)や墓所を区画する石組が発見され、一橋家の墓所と推測される。遺物では「地下室」から中国製磁器、銅製灯明具、松竹・鶴亀文印刻の土師質(はじしつ・素焼き)皿などが出土した。
近世以前では縄文時代前期、弥生時代末期頃、古墳時代後期、奈良・平安時代の住居跡が調査されており、古墳時代の住居跡は焼失して屋根材が炭化したまま残っていた。その他に道路状遺構や縄文時代の集石などが発見されている。火災住居跡からは完全な形の土師器坏(はじきつき)、金環(金銀貼の銅製耳環)が出土し、付近の摺鉢山古墳等に関連した集落とも推測される。
1998年発掘調査での出土遺物は、平成12年度(2000)台東区有形文化財(考古資料)に登載されている。
02. 天海僧正毛髪塔(てんかいそうじょうもうはつとう)
都指定旧跡
上野公園1
天海僧正は、江戸初期の天台宗の高僧で諡号(しごう)を慈眼大師(じげんだいし)という。
天文5年(1536)に奥州会津郡高田郷(福島県)で生まれた。11歳で出家、14歳で比叡山に登り実全に師事して天台教観を学び、さらに三井寺や奈良で諸教学を学んだといわれる。のちに江戸崎不動院(茨城県江戸崎町)、川越喜多院(埼玉県川越市)などに住し、徳川家康の知遇を受けた。元和2年(1616)家康が没すると、その神格化にあたり権現号の勅許を計り、合わせて日光廟の基本的構想をたて造営を指導した。その後も将軍秀忠・家光の帰依を受け、江戸城鎮護のため上野忍岡に寺院の建立を進言し、寛永2年(1625)に寛永寺を創建した。
寛永20年(1643)に子院の本覚院にて108歳で示寂。遺命により日光山に葬られ、この地(本覚院跡)には供養塔が建てられた。後に本覚院伝来の毛髪を納めた塔も建てられ、毛髪塔と呼ばれるようになった。
03. 彰義隊の墓(しょうぎたいのはか)
台東区有形文化財)
上野公園1
江戸幕府十五代将軍徳川慶喜は大政奉還の後、鳥羽伏見の戦いに敗れて江戸へ戻った。東征軍(官軍)や公家の間では、徳川家の処分が議論されたが、慶喜の一橋家時代の側近達は慶喜の助命を求め、慶応4年(1868)2月に同盟を結成、のちに彰義隊と称し、慶喜の水戸退隠後も徳川家霊廟の警護などを目的として上野山(東叡山寛永寺)にたてこもった。
慶応4年5月15日朝、大村益次郎指揮の東征軍は上野を総攻撃、彰義隊は同夕刻敗走した。いわゆる上野戦争である。彰義隊士の遺体は上野山内に放置されたが、南千住円通寺の住職仏磨らによって当地で茶毘に付された。
正面の小墓石は、明治2年(1869)寛永寺子院の寒松院と護国院の住職が密かに付近の地中に埋納したものだが、後に堀り出された。大墓石は、明治14年(1881)12月に元彰義隊小川興郷(椙太)らによって造立。彰義隊は明治政府にとって賊軍であるため、政府をはばかって彰義隊の文字はないが、旧幕臣山岡鉄舟の筆になる「戦死之墓」の字を大きく刻む。
平成2年(1990)に、台東区有形文化財として区民文化財台帳に登載された。
04. 清水観音堂(きよみずかんのんどう)
重要文化財
上野公園1
清水観音堂は、寛永寺を開創した天海が京都清水寺を模して寛永8年(1631)に創建した。当初、現在地より100メートル余り北方の摺鉢山上にあったが、元禄7年(1694)この地へ移築し、現在に至っている。堂宇は、桁行五間、梁間四間、単層入母屋造り、本瓦葺。とくに不忍池に臨む正面の舞台造りは、江戸時代より浮世絵に描かれるなど、著名な景観である。
近年老朽化が目立ち、平成2年(1990)より全面的な解体・修復工事を実施、平成8年(1996)5 月に完成した。この間、移築年代を元禄9年(1696)とする定説をくつがえす、元禄7年(1694)の棟札が発見されるなど、さまざまな事実が明らかとなっている。
本尊は千手観音坐像で、京都清水寺より奉安したもの。秘仏で平常は厨子内に安置するが、毎年2月初午の日にのみ開扉され、多くの参詣者が訪れる。
脇本尊の子育観音は、子供に関するさまざまな願いをもつ人々の信仰をあつめ、願い事が成就した際には身代わりの人形を奉納する。毎年9月25日には、奉納された人形を供養する行事がある。
05. 秋色桜(しゅうしきざくら)
上野公園1
上野は、江戸のはじめから桜の名所として知られていた。数多くの桜樹の中には、固有の名を付せられた樹も何本かあり、その代表的なものが、この「秋色桜」である。
井戸ばたの 桜あぶなし 酒の酔
この句は元禄の頃、日本橋小網町の菓子屋の娘お秋が、花見客で賑わう井戸端の様子を詠んだものである。桜の枝に結ばれたこの句は、輪王寺宮に賞せられ、一躍江戸中の大評判となった。お秋は当時13歳だったと伝えられている。俳号を菊后亭秋色と号した。以来この桜は、「秋色桜」と呼ばれている。ただし、当時の井戸は摺鉢山の所ともいい正確な井戸の位置については定かでない。
お秋は、9歳で宝井其角の門に入り、其角没後はその点印を預かる程の才媛であった。享保10年(1725)没と伝えられる。
碑は、昭和15年(1940)10月、聴鴬荘主人により建てられた。現在の桜は、昭和53年(1978)に植え接いだもので、およそ9代目にあたると想像される。
06. 蜀山人の碑(しょくさんじんのひ)
上野公園4
一めんの花は碁盤の
上野山 黒門前に
かかるしら雲 蜀山人
碑面には、大書してこの歌を刻む。ついで、蜀山人についての説明、碑建設のいきさつを、細字で刻んでいる。歌の文字は蜀山人の自筆であるという。
蜀山人は姓を大田、名を覃、通称を直次郎といった。蜀山人はその号である。南畝(なんぽ)・四方赤良(よものあから)など、別号多く、一般には大田南畝と呼ぶ。幕臣であったが、狂文・狂歌を良くし、漢学・国学を学んで博識であった。江戸文人の典型といわれ、狂歌の分野では唐衣橘洲(からごろもきっしゅう)・朱楽管江(あけらかんこう)とともに、三大家と評された。文政6年(1823)没。
江戸時代、上野は桜の名所であった。昭和13年(1938)、寛永寺総門の黒門跡に、その桜と黒門を詠み込む蜀山人の歌一首を刻んだ碑が建てられた。郷土色豊かな建碑といっていい。
07. 五條天神社旧社地跡(ごじょうてんじんしゃきゅうしゃちあと)
上野4-10
この地は、五條天神社の別当、ならびに幕府の連歌宗匠を務めた瀬川家が寛永15年(1638)より屋敷を構え、元禄10年(1697)から大正時代にかけては五條天神社が鎮座していた所である。
五條天神社は薬祖神としての信仰をあつめた神社で、室町時代中期には上野山に鎮座していることが明らかな、区内でも有数の古社である。江戸初期までの鎮座地は、現在の上野公園内摺鉢山(すりばちやま)上、さらには同公園南端付近(黒門脇)と伝えている。
こうした遷座は、寛永2年(1625)以後の寛永寺諸堂の造営、同8年(1631)の摺鉢山上における清水観音堂建立など、寛永寺造営工事にからむものと思われる。
元禄10年(1697)に五條天神社が当地(瀬川家屋敷)に移されると、やがて、この付近は「五條天神門前」という町屋が形成され、上野広小路の一角としてにぎわった。大正時代には、国鉄の敷設工事や関東大震災にともない、その都度付近への遷座を余儀なくされたが、昭和3年(1928)上野公園西端の地に社殿を新造し、現在に至っている。
なお、「五條天神門前」の名は、明治2年(1869)「五條町」に改めた。五條天神の移転後もこの町名は存続したが、昭和39年(1964)の町名変更にともない「上野」の一部となった。
08. 弁天堂(べんてんどう)
上野公園2
寛永2年(1625)天海僧正は、比叡山延暦寺にならい、上野台地に東叡山寛永寺を創建した。不忍池は、琵琶湖に見立てられ、竹生島(ちくぶしま)に因んで、常陸(現茨城県)下館城主水谷(みずのや)勝隆が池中に中之島(弁天島)を築き、さらに竹生島の宝厳寺(ほうごんじ)の大弁才天を勧請し、弁天堂を建立した。
当初、弁天島へは小船で渡っていたが、寛文年間(1661~1672)に石橋が架けられて、自由に往来できるようになり、弁天島は弁天堂に参詣する人々や行楽の人々で賑わった。
弁天堂は、昭和20年(1945)の空襲で焼失し、昭和33年(1958)9月に再建された。弁天堂本尊は、慈覚大師の作と伝えられる八臂(はっぴ)の大弁才天、脇士は毘沙門天、大黒天である。
本堂天井には、児玉希望(こだまきぼう)画伯による「金竜」の図が画かれている。また、本堂前、手水鉢の天井に、天保3年(1832)と銘のある谷文晃による「水墨の竜」を見ることができる。
大祭は、9月の巳の日で、巳成金(みなるがね)という。
09. 時の鐘(寛永寺)(ときのかね)
上野公園4
花の雲 鐘は上野か 浅草か
芭蕉が詠んだ句はここの鐘のことである。
時の鐘は、はじめ江戸城内で撞かれていたが、寛永3年(1626)になって、日本橋石町3丁目に移され、江戸市民に時を告げるようになったという。元禄以降、江戸の町の拡大に伴い、上野山内・浅草寺のほか、本所横川・芝切通し・市谷八幡・目白不動・目黒円通寺・四谷天竜寺など、全部で9か所に置かれた。
初代の鐘は、寛文6年(1666)の鋳造。銘に「願主 柏木好古」とあったという。その後、天明7年(1787)に、谷中感応寺(現天王寺)で鋳直されたものが、現存の鐘である。正面に「東叡山大銅鐘」、反対側には「天明七丁未歳八月」、下に「如来常住、無有変易、一切衆生、悉有仏性」と刻まれている。
現在もなお、鐘楼を守る人によって、朝夕6時と正午の3回、昔ながらの音色を響かせている。
なお、平成8年(1996)6月、環境庁の残したい「日本の昔風景100選」に選ばれた。
10. 上野大仏とパゴダ(うえのだいぶつとパゴダ)
上野公園4
正面の丘は、かつて「大仏山」と呼ばれ、丘上にはその名のとおり大きな釈迦如来坐像が安置されていた。
最初の大仏は、越後(現新潟県)村上藩主堀直寄(なおより)が、寛永8年(1631)に造立した2メートル80 センチ前後の釈迦如来像であったが、粘土を漆喰で固めたものであったため、正保4年(1647)の地震により倒壊してしまった。
明暦~万治年間(1655~1660)には、木食僧浄雲(もくじきそうじょううん)が江戸市民からの浄財によって、3メートル60センチをこえる青銅製の堂々たる釈迦如来坐像を造立した。その後、元禄11年(1698)輪王寺宮公弁法親王(りんのうじのみやこうべんほっしんのう)が、同像を風雨から覆うための仏殿を建立。天保12年(1841)の火事によって大仏・仏殿ともに被害を受けたが、一年半後の天保14年には、最初の造立者堀直寄の子孫直央(なおたか)が大仏を修復、幕府が仏殿を再建した。さらに、安政2年(1855)の大地震では大仏の頭部が倒壊したものの、間もなく堀家が修復している。
しかし、明治6年(1873)上野公園開設の際に仏殿が取り壊され(年代については他に同9年、同10年の二説あり)、大正12年(1923)の関東大震災では大仏の面部が落下、さらに、第二次世界大戦における金属供出令により大仏の体・脚部を国へ供出したため、面部のみが寛永寺に遺った。寛永寺では、昭和47年(1972)丘陵上の左手に壁面を設け、ここに「上野大仏」の顔をレリーフ状に奉安した。
なお、江戸時代の大仏は、いずれも南に向かって造立され、丘陵の南側には当時の参道(石段)が現存する。
また、同じく丘陵上の正面にある建物は、「パゴダ」(仏塔のこと)と呼ばれている。上野観光連盟が上野公園の名所のひとつとするために建設したもので、昭和42年(1967)3月着工、同年6月に完成した。高さ15メートル、内部には中央に薬師如来、左側に月光菩薩、右側に日光菩薩を安置している。この薬師三尊像は、江戸末期まで東照宮境内にあった薬師堂の本尊で、明治初期の神仏分離令により寛永寺に移管、さらにパゴダの本尊として迎えられた。
11. お化け灯籠(おばけどうろう)
上野公園4
佐久間大膳亮勝之(だいぜんのすけかつゆき)が東照宮に寄進した石造の燈籠で、
奉寄進佐久間大膳亮平朝臣勝之
東照大権現御宝前石燈籠
寛永八年辛未孟冬十七日
と刻字し、寄進者・寄進年月を知ることができる。寛永8年(1631)当時、東照宮は創建して間もなく、社頭には、現存の大鳥居・銅燈籠・石燈籠などは、まだわずかしか奉納されていなかった。勝之は他にさきがけて、この燈籠を寄進したのである。
勝之は、織田信長の武将佐久間盛次の四男。母は猛将柴田勝家の姉という。信長・北条氏政・豊臣秀吉、のち徳川家康に仕え、信濃国川中島ほかで1万8千石を領した。
燈籠の大きさは、高さ6.06メートル、笠石の周囲3.63メートルと巨大で、その大きさゆえに「お化け燈籠」と呼ぶ。同じ勝之の寄進した京都南禅寺・名古屋熱田神宮の大燈籠とともに、日本三大燈籠に数えられる。
12. 摺鉢山古墳(すりばちやまこふん)
上野公園5
摺鉢山は、その形状が摺鉢を伏せた姿に似ているところから名付けられた。ここから弥生式土器、埴輪の破片などが出土し、約1500年前の前方後円形式の古墳と考えられている。
現存長70メートル、後円部径43メートル、前方部幅は最大部で23メートル。後円部の道路との比高は5メートルである。
丘上は、かつての五條天神社、清水観音堂鎮座の地であった。
五條天神社の創立年代は不明であるが、堯恵法師は『北国紀行』のなかで、文明19年(1487)に忍岡に鎮座する五條天神社を訪れた際、
契りきて たれかは春の
初草に 忍びの岡の 露の下萌
と、うたっている。現在、上野公園忍坂脇に鎮座。
清水観音堂は、寛永8年(1631)寛永寺の開祖天海僧正により建立されたが、元禄年間(1688〜1703)初めごろ寛永寺根本中堂建立のため、現在地に移転した。
現在、丘上は休憩所となっているが、昔のまま摺鉢の形を保っている。
13. 小松宮彰仁親王銅像(こまつのみやあきひとしんのうどうぞう)
上野公園8
彰仁親王は伏見宮邦家親王の第八王子。安政5年(1858)京都仁和寺に入って純仁法親王と称し、慶応3年(1867)勅命により22歳で還俗、仁和寺宮と改称した。同4年(1868)1月の鳥羽・伏見の戦に、征討大将軍として参戦。ついで奥羽会津征討越後口総督となり、戊辰戦争に従軍した。
明治10年(1877)5月、西南戦争の負傷者救護団体として、博愛社が創立されると、9月その総長に就任した。同15年(1882)には、小松宮彰仁親王と改称。同20年(1887)、博愛社が日本赤十字社と改名すると、総裁として赤十字活動の発展に貢献した。同36年(1903)1月18日、58歳で没。
銅像は明治45年(1912)2月に建てられ、同3月18日、除幕式が挙行された。作者は文展審査員の大熊氏廣。『下谷區史』は当地に建てた理由について、寛永寺最後の門跡・輪王寺宮公現法親王(のちの北白川宮能久親王)の兄宮であったことに因んだのだろうと推察している。
14. グラント将軍植樹碑(ぐらんとしょうぐんしょくじゅひ)
上野公園8
明治10年(1877)から同13年(1880)にかけて、グラント将軍は家族同伴で、世界を周遊した。その際、来日。同12年(1879)8月25日、ここ上野公園で開催の大歓迎会に臨み、将軍はロウソン檜、夫人は泰山木を記念に植えた。植樹の由来が忘れられるのを憂い、昭和4年(1929)8月、この碑を建設。碑は正面に将軍の胸像を刻み、向かって右側に和文、左側に英文で、将軍の略歴・日本滞在中の歓迎の模様、植樹の由来を記している。胸像下部には、英語で、将軍の言葉「平和を我等に」の文字を刻む。
グラント将軍のフルネームはユリシーズ・シンプソン・グラントという。北軍の義勇軍大佐として、南北戦争に従軍。戦功を重ね、のち総司令官となり、北軍を勝利に導いた。明治2年(1869)、アメリカ合衆国大統領に選ばれ、同10年(1877)まで二期在任した。いま、将軍植樹の木は大木に成長している。
15. 上野東照宮(うえのとうしょうぐう)
重要文化財
上野公園9
藤堂高虎(1556〜1630)は上野山内の屋敷の中に、徳川家康を追慕し、家康を祭神とする宮嗣を造った。これが上野東照宮の創建といわれている。あるいは寛永4年(1627)、宮嗣を造営したのが創建ともいう。もとは「東照社」と称していたが、正保3年(1646)に宮号宣下があり、それ以降家康を祀る神社を東照宮と呼ぶようになった。
現在の社殿は、慶安4年(1651)、三代将軍家光が大規模に造り替えたもので、数度の修理を経ているが、ほぼ当初の姿を今に伝える。社殿の構造は、手前より拝殿(はいでん)・弊殿(へいでん)、本殿からなり、その様式を権現造(ごんげんづく)りという。社殿は東京都内でも代表的な、江戸時代初期の権現造りで、華麗荘厳を極めている。
唐門、透塀は社殿とともに構造、様式が優れており貴重であることから、参道入口の石造神明鳥居、唐門前に並ぶ銅燈籠48基と合わせて国の重要文化財に指定されている。
16. 銅燈籠(どうとうろう)
重要文化財
上野公園9 上野東照宮
東照宮社殿唐門(からもん)前と参道に、48基の銅燈籠が並んでいる。燈籠は神事(しんじ)・法会(ほうえ)を執行するときの浄火を目的とするもの。照明用具ではない。浄火は神事・仏事に使う清めた火。燈籠は上部から、宝珠(ほうじゅ)・笠・火袋(ひぶくろ)・中台(ちゅうだい)・竿(さお)・基壇で構成されている。火袋は、八角・六角・四角などの形式に分かれ、各面には火口・円窓という窓を設けている。火袋下部の長い部分を竿といい、ここに銘文を刻むことが多い。
これら銅燈籠は、諸国の大名が東照大権現(とうしょうだいごんげん)霊前に奉納したもの。竿の部分には、寄進した大名の姓名と官職名・奉納年月日等が刻字されている。それによると、伊勢国(現三重県)津藩主藤堂高虎奉献の寛永5年(1628)銘1基をはじめ、慶安4年(1651)正月17日奉献2基、同年4月17日奉献45基、同5年孟夏(もうか)17日奉献2基となっている。慶安4年4月17日は東照宮社殿落慶の日。その日の奉献数が最も多い。これら銅燈龍は、東照宮社殿とともに一括して、国の重要文化財に指定されている。
17. 閑々亭(かんかんてい)
上野公園9
寛永3年(1626)伊勢国安濃津藩主(いせのくにあのつはんしゅ・三重県津市)藤堂和泉守高虎(とうどういずみのかみたかとら)は上野の私邸内に東照宮を建て前後してそのとなりに寒松院という寺を建て、客をもてなすために立派な家をつくりました。
翌4年東照宮の移し替えの祭りのおり徳川秀忠、家光が相次いで東照宮を参拝し、その帰りに寒松院に立ち寄っていろいろ持て成しを受けました。
閑々亭の名はその時将軍家光が「武士も風流をたしなむほど世の中が閑(ひま)になったので、閑々亭と名付けるがよかろう」といったことによると言われています。
寒松院は明治元年(1868)彰義隊の戦いで焼けましたが明治11年(1878)5月寒松院の庭になっていたこの場所に閑々亭だけが復旧され、その後度々補修されて今日に至っています。
18. 寛永寺根本中堂跡(かんえいじこんぽんちゅうどうあと)
上野公園8
江戸時代、現上野公園の地は東叡山寛永寺境内で、堂塔伽藍が建ち並んでいた。いま噴水池のある一帯を、俗に 「竹の台(だい)」と呼ぶ。そこには廻廊がめぐらされ、勅額門(ちょくがくもん)を入ると、根本中堂が建っていた。根本中堂は中堂ともいい、寛永寺の中心的堂宇で、堂内に本尊の薬師如来像が奉安してあった。斎藤月岑(げっしん)作『武江年表(ぶこうねんぴょう)』元禄11年(1698)の項には、「八月、東叡山寛永寺根本中堂、文殊楼、仁王門並びに山王社建立。二十八日中堂入仏あり。九月六日、瑠璃殿の勅額到着」とある。瑠璃殿は中堂の別称で、本尊を薬師瑠璃光如来ともいったのにちなむ。瑠璃殿は坂東第一といわれたほど、荘厳華麗であった。瑠璃のように美しかったであろう。中堂前両側には、近江延暦寺中堂から根わけの竹が植えられ、「竹の台(うてな)」と呼ばれた。「竹の台」はその名によるものである。
慶応4年(1868)5月15日、彰義隊の戦争がこの地で起こり、寛永寺堂塔伽藍はほとんどが焼けた。
19. 野口英世銅像(のぐちひでよどうぞう)
上野公園8
野口英世は、明治9年(1876)11月9日、福島県猪苗代湖畔の農家に生まれた。同31年(1898)、北里柴三郎主宰の伝染病研究助手となり、同33年(1900)12月に渡米、同37年(1904)よりロックフェラー医学研究所で梅毒スピロヘータ等の研究を重ね、国際的にも高い評価を受けた。大正7年(1918)からは中・南米やアフリカに赴き、黄熱病(おうねつびょう)の研究に努めたが、やがて自らも感染してしまい、昭和3年(1928)5月21日、現在のアフリカ・ガーナの首都アクラで没した。享年53歳。
野口英世銅像は総高約4.5メートル(台石を含む)、製作者は多摩美術大学教授吉田三郎。英世の写真に基づき、試験管をかざした実験中の姿を表現したもので、台石にはラテン語で「PRO BONO HUMANIGENERIS(人類の幸福のために)」と刻まれている。
銅像造立の活動をはじめて起こした人物は、福島県大玉村出身の玉応不三雄(たまおふみお)である。玉応は英世の偉業を後世に伝えようと、昭和22年(1947)より募金活動を行ったが、国内の経済力が貧弱な時期にあって困難をきわめ、中途にして病に倒れた。その後、日本医師会・北里研究所・野口英世記念会等が活動を引き継ぎ、昭和25年(1950)には東京都教育委員会山崎匡輔を建設委員長にむかえ、山崎の周旋によって上野公園に造立されることが決定した。
昭和26年(1951)3月、現在地に造立。月は異なるものの英世の命日である同月21日に除幕式が行われた。
なお、銅像前面の標示石・敷石は昭和46年(1971)に会津会(あいづかい)が設置したものである。









