谷中


 谷中銀座


01. 太田錦城墓(おおたきんじょうはか)
都指定旧跡 
谷中1-6-1  一乗(いちじょう)寺

 太田錦城(1765~1825)は江戸時代中期の儒学者で、名は元貞、字は公幹、錦城は号である。才佐と称し加賀大聖寺に生まれ、皆川淇園、山本北山に折衷派を学んだが満足せず、漢代以降の中国の諸説を直接研究し、ついに一家を成した。いわゆる折衷学派という。
 晩年に至り、一時京畿に遊び、三河国吉田侯に仕えたが、加賀国金沢藩から賓使として招かれ、300石を給せられた。
 文政8年(1825)4月23日、61歳で没した。著書には『九経談』『春草堂集』『鳳鳴集』など非常に多くの著述があり、長子は加賀侯に仕え、三男は吉田侯に儒学をもって仕えた。

 
02. 善光寺坂 (ぜんこうじさか)
谷中1-5

 谷中から文京区根津の谷に下りる坂には、この坂と北方の三浦坂・あかぢ坂とがあり、あかぢ坂は明治以後の新設である。
 善光寺坂は信濃坂ともいい、その名はこの坂上の北側にあった善光寺にちなむ。善光寺は、慶長6年(1601)信濃善光寺の宿院として建立され門前町もできた。寺は元禄16年(1703)の大火に類焼して、青山(港区青山3丁目)に移転し、善光寺門前町の名称のみが明治5年(1872)まで坂の南側にあった。
 善光寺坂のことは、明和9年(1772)刊行の『再校江戸砂子(さいこうえどすなご)』にも見え、『御府内備考(ごふないびこう)』の文政9年(1826)の書上には、幅2間(約3.6メートル)、長さ16間(約29メートル)、高さ1丈5尺(約4.5メートル)ほどとある。


03. 玉林寺のシイ (ぎょくりんじのしい)
都指定天然記念物 
谷中1-7-15 玉林(ぎょくりん)寺

 望湖山玉林寺は天正19年(1591)現在地に創建された曹洞宗の寺院である。本堂裏側にそびえるシイの種類はスダジイであり、幹回り5.63メートル、樹高9.5メートル、枝張りは東に3.5メートル、西に2メートル、南に7.5メートル、北に4メートルを計る。玉林寺創建以前から存在していたと言われ、市街化した地域に遺存する巨樹として貴重である。
 平成3年(1991)から5年(1995)にかけて大規模な外科手術を行った結果、樹勢は回復しつつある。スダジイは、一般にシイノキと呼ばれるブナ科の常緑高木で、福島県・新潟県以南の本州、四国、九州、沖縄に分布する。
 雌雄同株で6月頃上部に雄花の穂を、下部に雌花の穂を出す。果実は、1.5センチ程の大きさで2年目に熟し食用となる。材は家具・建築・パルプ用材として広く使われている。


04. 太宰春台墓(だざいしゅんだいはか)
都指定史跡
谷中1-2-14 天眼(てんげん)寺

 太宰春台(だざいしゅんだい)は江戸時代中期の儒学者、経世家です。名を純といい、字を徳夫と称していました。信州飯田に生まれ、江戸に出て但馬出石(たじまいずし)藩の松平氏に仕えました。17歳で儒学者中野撝謙(なかのぎけん)に師事し、朱子学を学びました。元禄13年(1700)、21歳で官を辞し、以後10年の間京都、畿内を遊学し、その間に古楽派に親しみました。
 正徳3年(1713)、再び江戸に出て、荻生徂徠(おぎゅうそらい)に復古学を学びました。孔子伝古文孝経を研究し、校訂して音註を作り、諸藩に分かちました。また儒学の基本をなす経学の分野では、『論語古訓』および『論語古訓外伝』など数十巻を著しました。儒学の思想に関するものとしては『聖学問答』、『弁道書』などがあります。
 延享4年(1747)5月晦日、68歳で没しました。お墓は円頭角柱形の桿石に隷書で「春台太宰先生之墓」と題し、三面に銘文を刻んでいます。高さ1.32メートル。


05. 蒲生君平墓(がもうくんぺいはか)
国指定史跡
谷中1-4-13 臨江(りんこう)寺

 蒲生君平は、明和5年(1768)下野国(現栃木県)宇都宮の商家に生まれる。通称伊三郎(いさぶろう)、字を君臧また君平、修静また修静庵と号した。姓は福田といったが、先祖が豊臣秀吉の武将蒲生氏郷(がもううじさと)の流れであることを知り、蒲生と名乗ったという。高山彦九郎(ひこくろう)、林子平(はやししへい)と共に寛政三奇人の一人と称せられている。
 幼児から学問に励み、長じて水戸藩士藤田幽谷(ふじたゆうこく)を知り、節義と憂国の感化を受けた。寛政(1789~1800)の末期、諸国の天皇陵を歩き、享和元年(1801)『山陵志』を完成させた。これは、幕末の尊王論の先駆をなすものとして名高い。 
 後、江戸に出て著述に専念し、文化10年(1813)に没した。「蒲生君臧墓表」と題した墓石には四面に渡って藤田幽谷の撰文を刻む。昭和17年(1942)国史跡に指定された。
 山門にある「勅旌忠節蒲生君平(ちょくせいちゅうせつがもうくんぺい)」の石柱は明治初年政府が建立したものである。


06. 三浦坂 (みうらざか)
谷中1-4

 『御府内備考(ごふないびこう)』は三浦坂について、「三浦志摩守下屋敷の前根津の方へ下る坂なり、一名中坂と称す」と記している。三浦家下屋敷前の坂道だったので、三浦坂と呼ばれたのである。安政3年(1856)尾張屋版の切絵図に、「ミウラサカ」・「三浦志摩守」との書き入れがあるのに基づくと、三浦家下屋敷は坂を登る左側にあった。
 三浦氏は美作(みまさか)国(現岡山県北部)真島郡勝山2万3千石の藩主。勝山藩は幕末慶応の頃、藩名を真島藩と改めた。明治5年(1872)から昭和42年(1967)1月まで、三浦坂両側一帯の地を真島町といった。『東京府志料』は「三浦顕次ノ邸近傍ノ土地ヲ合併新二町名ヲ加へ(中略)真島ハ三浦氏旧藩ノ名ナリ」と記している。坂名とともに、町名の由来にも、三浦家下屋敷は関係があったのである。
 別名の中坂は、この坂が三崎坂と善光寺坂の中間に位置していたのに因むという。

 
07. 領玄寺貝塚(りょうげんじかいづか)
谷中4-3 領玄(りょうげん)寺

 貝塚とは、縄文時代の人々が食用の貝殻をはじめ、土器や石器を投棄した場所をいう。貝塚は、その地が当時海辺であった証拠である。
 領玄寺から北隣の妙円寺にかけて、縄文時代中・後期(紀元前3000年~2000年ころ)の小規模な貝塚が点在し、

 貝-ハマグリ・マガキ等、十二種類の貝
 土器-勝坂(かつさか)式・加曽利(かそり)E式(中期後半)・堀之内式(後期前半)等の土器
 石器-打製石斧・石鏃・石錘等

などの遺物が発見されている。
 領玄寺貝塚は上野台地の西端に立地し、北方には同時期の延命院貝塚が見られ、現在のJR線路に沿っては天王寺貝塚(谷中霊園内)や新坂(しんざか)貝塚(鴬谷駅南口付近)などの貝塚遺跡が分布する。かつて、上野台地は西側に旧石神井川(藍染[あいぞめ]川)の流れる谷があり、東には海岸線が広がっていて、漁撈生活を営む縄文時代人には住みやすい土地であった。

 
現在は墓地になっています。見学希望の方は領玄寺にご連絡ください。


08. 大久保主水墓 (おおくぼもんとはか)
都指定旧跡 
谷中4-2-5 瑞輪(ずいりん)寺

 名は忠行、または藤五郎と称す。三河国の武士で、徳川家康に仕え300石を給されていた。一向一揆のときに足を負傷してから戦列に加われず、餅菓子を作る特技を生かし、以後、家康に菓子を献じたという。
 天正18年(1590)家康は江戸に入り町づくりを始める。用水事業を命ぜられた忠行は、武蔵野最大の湧水地である井の頭池、善福寺池を源に、それぞれの池から流れる河流を利用して、江戸城ならびに市中の引水に成功した。これを神田上水といい、江戸の水道の始まりであり、また我が国水道のさきがけであった。

 この功により、家康から「主水」の名を賜り、水は濁らざるを尊しとして「モント」と読むべしと言ったという。以来、子孫は代々主水と称し、幕府用達の菓子司を勤めた。元和3年(1617)没。
 なお、墓への通路脇にある八角形の井戸「大久保主水忠記の井戸」は、天保6年(1835)十代目忠記が、忠行の業績を顕彰したものである。平成23年(2011)に、台東区有形文化財として台東区民文化財台帳に登載された。

 
09. 下村観山墓(しもむらかんざんはか)
谷中5-3-17 安立(あんりゅう)寺

 明治から昭和初期にかけての画家。本名は晴三郎。明治6年(1873)和歌山に生まれる。幼少から絵を好み、同14年(1881)上京。狩野芳崖、橋本雅邦(がほう)に師事。ついで東京美術学校(現東京藝術大学)に学び、同27年(1894)卒業、同校助教授となった。明治31年(1898)、岡倉天心の日本美術院創立に参加し、菱田春草、横山大観らと活躍した。その後、教授に復職。また、文部省留学生としてヨーロッパに渡り、同38年(1905)帰国する。
 当時、日本美術院は不振の難局にあり、天心がその絵画部を茨城県五浦(北茨木市)に移したとき、観山も大観らと同所に転居した。明治40年(1907)第1回文展に「木の間の秋」を出品、好評を得た。同45年(1912)、五浦を引き上げ、新居を横浜に構えた。
 大正2年(1913)岡倉天心が没し、翌3年(1914)大観らと日本美術院を再興、現代日本美術の発展に寄与した。観山は多くの名作を発表したが、なかでも歴史を題材としたものを得意とし、「弱法師(よろぼし)」は代表作である。

 昭和5年(1930)5月、58歳で没した。


10. 愛染堂・愛染かつらゆかりの地 (あいぜんどう・あいぜんかつらゆかりのち)
谷中6-2-8 自性(じしょう)院

 自性院は、慶長16年(1611)に神田に創建、慶安元年(1648)現在地に移った古寺である。
 当院は、愛染堂に安置した愛染明王像で知られ、江戸文化が花開いたといわれる文化文政の頃(1804~1830)になると、その名は近在まで広がったと伝えられる。江戸時代中期頃から別名を俗に愛染寺といわれた由縁である。
 愛染明王像は、寺伝によれば、元文年間(1736~1741)第九世貫海上人が境内の楠を切り彫刻した。像高1メートル、像内には、貫海上人が高野山参詣のとき、奥院路上で拾得した小さな愛染明王が納められていると伝えられている。
 愛染明王は、特に縁結び、家庭円満の対象として信仰されている。昭和の初め、文豪川口松太郎の名作『愛染かつら』は、当院の愛染明王像と本堂前にあった桂の古木にヒントを得た作品だといわれる。


11. 渋江抽斎墓(しぶえちゅうさいはか)
谷中6-2-4 感応(かんのう)寺

 江戸末期の医師・儒学者。諱(いみな)は全善(かねよし)、字は道純、抽斎は号である。文化2年(1805)、弘前藩医の子として江戸神田に生まれる。

 弘化元年(1844)、現在の浅草橋4丁目の地にあった医学館(東京大学医学部の前身)の講師になる。医学を伊沢蘭軒(らんけん)に、儒学を市野迷庵(いちのめいあん)・狩谷エキ斎(かりやえきさい・エキは木偏に夜)に学ぶ。友人の医師森枳園(きえん)との共著『経籍訪古志(けいせきほうこし)』(全8巻)は名高く、日本に伝わる漢籍の所蔵・伝来・体裁等を記したもので書誌学者・蔵書家としての抽斎の見識の高さが窺える。医師としての業績に、種痘治療法を記述した『護痘要法(ごとうようほう)』の著書がある。
 安政5年(1858)コレラに罹り、54歳で没し、当寺に葬られた。境内の「渋江道純墓碣銘(ぼけつめい)」は、抽斎の事蹟を刻むもので、漢学者海保漁村(かいほぎょそん)が撰した文を、書家小島成斎(せいさい)が記し、ともに生前の親交が深かった。
 没後、森鴎外の史伝『渋江抽斎』によって、初めて抽斎の名が一般に知られるようになった。

 
12. 高橋泥舟墓(たかはしでいしゅうはか)
谷中6-1-26 大雄(だいおう)寺


 高橋泥舟は幕末期の幕臣、槍術家。名は政晃。通称謙三郎。のち精一。泥舟と号した。山岡鉄舟の義兄にあたる。天保6年(1835)2月17日、山岡正業の次男として生まれ高橋包承の養子となる。剣術の名人として世に称賛され、21歳で幕府講武所教授、25歳のとき同師範役となり、従五位下伊勢守に叙任された。
 佐幕、倒幕で騒然としていた文久2年(1862)12月、幕府は江戸で浪士を徴集し、翌3年2月京都へ送った。泥舟は浪士取扱となったが、浪士が尊攘派志士と提携したため任を解かれた。同年12月師範役に復職し、慶応3年(1867)遊撃隊頭取となる。
 翌4年(1868)1月「鳥羽伏見の戦」のあと、主戦論が多数を占めていた中で、泥舟は徳川家の恭順を説き、十五代将軍徳川慶喜が恭順の姿勢を示して寛永寺子院の大慈院に移り、ついで水戸に転居した際には、遊撃隊を率いて警固にあたった。廃藩置県後は、要職を退き、隠棲し書を楽しんだという。明治36年(1903)2月13日没。勝海舟、山岡鉄舟とともに幕末の三舟といわれる。