
鴎外は古地図を好んで蒐集していたが、自らも東京の地図を立案している。升目を用いた方眼による地図は、当時では珍しいものだった。小説『青年』の主人公の小泉はこの地図を片手に東京を巡った。
上野界隈の足跡をたどる
鴎外が会食や子連れで通ったレストラン。ドイツ衛生学を信奉していた鴎外はソース料理を不衛生とし、コンソメ、そしてステーキ、ローストビーフか、コールドビーフ、野菜料理、プディング、珈琲が定番のメニューだった。『青年』ではサラダやコーヒーを食する描写が登場する。[現上野精養軒]
鴎外は、大正8年(1919)から11年(1922)まで帝国美術院初代院長を務めた。[現日本藝術院]

明治45年(1912)発行の絵はがき

昭和7年(1932)

明治時代末期
『雁』において、お玉が髪結に通った町。『ヰタ・セクスアリス』では同朋町と数寄屋町から芸者が呼ばれている。[旧町名]
『雁』において、末造が買い物に向かった先。当時北角という雑貨屋があったという。[旧町名]
松永町と同様に、末造の買い物先。「現仲御徒町]
当時、青石横町の仲町2 丁目にあった高級料亭。夏目漱石(なつめ そうせき)や横山大観(よこやま たいかん)らも足を運んだ。長女茉莉(まり)は、伊予紋でのエピソードを幾つか残しているが、伯父の婚礼に鴎外が選んだ着物で参列したと記している。『雁』、『ヰタ・セクスアリス』にも登場する。[現存せず]
『雁』に登場する医学生岡田の日々の散歩道。他にも小女が魚を買いに行く描写がある当時の商店街だった。[旧町名]
『雁』に登場する当時珍しい歯磨き粉を販売していた商店。「たしがらや倒(さか) さに読めばやらかした」という逆さ言葉の屋号が有名であったという。[現存せず]
下谷にあった寄席。当時、落語家三遊亭円朝(さんゆうてい えんちょう)等が出演していた。明治23 年(1890)発行の『東京百時便(とうきょうひゃくじべん)』には義太夫定席として紹介されている。[現存せず]
櫛屋。『雁』には、当時近辺で商いをしているのは蓮玉庵、煎餅屋、十三やしかないと書かれている。妹の喜美子(きみこ)の『鴎外の思い出』にも買い物に立ち寄ったと記されている。[現十三や櫛店]
鴎外が通った老舗の蕎麦屋。樋口一葉、坪内逍遥らの作品にも登場する。『雁』では、蕎麦を手繰(たぐ)る描写が見られる。[現蓮玉庵]
『雁』、『ヰタ・セクスアリス』に花街としての描写があり、明治16年(1883)発行の『東京妓情(とうきょうぎじょう)』によると、柳橋、新橋に続く上等な花街であった。[旧町名]
『ヰタ・セクスアリス』において、小菅への帰途に通った。中央通りと不忍通りが交わる辺りに、当時は忍川に三列橋が架かっていたという。[現存せず]
森鴎外旧居。明治22年(1889)から明治23年(1890)まで居住し、『於母影(おもかげ)』、『舞姫』、『うたかたの記』等を発表した。後年、鴎外荘と呼ばれた。[現水月ホテル鴎外荘]

大正時代
『雁』では、主人公と岡田が通った。また、鴎外荘(森鴎外旧居)を「花園町の家」とも呼んでいた。[旧町名]
『雁』では、末造が妾宅へ向かう際、女中と子供がいたため避けた町。[旧町名]
『雁』では、当時禁猟だった不忍池で獲った雁を下宿先までこっそり持ち込む際に通りがかった。[旧町名]
妾のお玉が住んでいた『雁』の舞台となった池之端から湯島へと登る坂。

明治時代末期

大正時代
『雁』では近辺のランドマークとして度々登場するが、当時の岩崎邸の石垣は整備されていなかったという。[現旧岩崎邸庭園]
『雁』に登場する作家、ジャーナリスト、政治家として活躍した著名人。福地桜痴(おうち)とも号した。邸宅は「池之端御殿」と呼ばれ、福地は「池之端の御前」とも呼ばれた。

昭和30年代(1955)
江戸中期の創業の鰻屋。鴎外や谷崎潤一郎等、多くの著名人が通った。[現伊豆栄]
『雁』において、お玉が末造にお目見えした料亭。『ヰタ・セクスアリス』では主人公の金井の大学卒業時の謝恩会会場として登場する。玄関前の風車の飾りが、特に有名だったという。[現存せず]
『雁』に登場する料理屋。店名は玄関に雁飾りが飾られていたことに由来する。[現存せず]
鴎外が子供を連れ通った池之端の豆腐料理屋。洋画家の小絲源太郎(こいと げんたろう)の実家としても知られている。[現存せず] (右上段に続く)
谷中界隈をたどる
『渋江抽斎(しぶえ ちゅうさい)』に登場する江戸時代末期の医師渋江抽斎の墓がある寺。
『青年』の主人公の小泉の下宿先。[旧町名]
千朶山房の後に移り住んだ千駄木(東京都文京区)の旧居。[現文京区立森鴎外記念館]
鴎外や夏目漱石の旧居。鴎外の住む観潮楼近くに位置する。[現夏目漱石旧居跡]
鴎外は、一時期「根岸党」という遊び集団とも交流があった。『青年』では坂井夫人の居宅がある。鴎外も、一時ここに住み、『ヰタ・セクスアリス』では上野から根岸を抜け、吉原へと向かう情景が描かれている。
『ヰタ・セクスアリス』に登場する三ノ輪(台東区三ノ輪)にあった古道具屋。[現存せず]
浅草界隈を訪ねる
待乳山と向島付近を結んだ渡船場。『ヰタ・セクスアリス』では主人公金井が吉原からの帰途に渡る描写がある。永井荷風は掌編『水のながれ』で、当時の場周辺の景色が幽雅であったと追想している。[現存せず]
当時白鬚橋のたもと付近にあった渡船場。『ヰタ・セクスアリス』の金井は、浅草から猿若町、橋場の渡を通り向島の居宅へ帰った。記録に残る隅田川の渡しとしては最も古く、平安の歌人在原業平も渡ったという。[現存せず]

明治時代末期
妹の喜美子が、当時まだ珍しかった写真を撮りに鴎外に連れられて行った。[現存せず]

大正時代

昭和10年(1935)
『雁』に、三河屋力蔵が猿若町に開いていた引手茶屋(ひきてぢゃや)が、当時の歌舞伎役者森田勘弥の森田座が開くため、移転したと記されている。猿若町には、江戸時代末期には江戸歌舞伎の芝居小屋が数多く建ち並んでいた。[旧町名]

東京案内(明治40年(1907)発行、国立国会図書館蔵)
当時は、浅草神社裏手に萬盛庵があった。

大正時代
『ヰタ・セクスアリス』では、吾妻橋から並木、仲見世(なかみせ)へと逍遙する様子が描かれている。[旧町名]
『ヰタ・セクスアリス』の舞台となった歓楽街。
『百物語』で、舟で隅田川を下る際に通り掛かる橋。[現厩橋]
柳橋の老舗料亭。『余興』の舞台であり、『青年』では忘年会の会場として登場する。[現亀清楼]
『余興』『百物語』『青年』に登場する花街。当時は料亭も数多く、一流の花街として賑わった。
参考資料
明治、大正、昭和時代の絵葉書(台東区立下町風俗資料館蔵)

鴎外は古地図を好んで蒐集していたが、自らも東京の地図を立案している。升目を用いた方眼による地図は、当時では珍しいものだった。小説『青年』の主人公の小泉はこの地図を片手に東京を巡った。
上野界隈の足跡をたどる
鴎外が会食や子連れで通ったレストラン。ドイツ衛生学を信奉していた鴎外はソース料理を不衛生とし、コンソメ、そしてステーキ、ローストビーフか、コールドビーフ、野菜料理、プディング、珈琲が定番のメニューだった。『青年』ではサラダやコーヒーを食する描写が登場する。[現上野精養軒]
鴎外は、大正8年(1919)から11年(1922)まで帝国美術院初代院長を務めた。[現日本藝術院]

明治45年(1912)発行の絵はがき

昭和7年(1932)

明治時代末期
『雁』において、お玉が髪結に通った町。『ヰタ・セクスアリス』では同朋町と数寄屋町から芸者が呼ばれている。[旧町名]
『雁』において、末造が買い物に向かった先。当時北角という雑貨屋があったという。[旧町名]
松永町と同様に、末造の買い物先。[現仲御徒町]
当時、青石横町の仲町2 丁目にあった高級料亭。夏目漱石や横山大観らも足を運んだ。長女茉莉(まり)は、伊予紋でのエピソードを幾つか残しているが、伯父の婚礼に鴎外が選んだ着物で参列したと記している。『雁』、『ヰタ・セクスアリス』にも登場する。[現存せず]
『雁』に登場する医学生岡田の日々の散歩道。他にも小女が魚を買いに行く描写がある当時の商店街だった。[旧町名] (右上段に続く)