2018年1月1日掲載
2018年1月1日掲載

子規は、多くの友人、門人、親族により護られていました。

浅井黙語(忠)のパリ留学を祝う送別会(浅井忠画) 「ホトトギス」明治33年(1900)1月号掲載
明治33年(1900)1月16日、万国博覧会視察と留学のためパリへ行く画家浅井忠の送別会が子規庵で開かれました。集まったのは、子規、浅井をはじめ、内藤鳴雪(ないとうめいせつ 俳人)陸羯南(くがかつなん)、下村為山(しもむらいざん 画家、俳人)、中村不折、五百木瓢亭(いおきひょうてい 日本新聞記者、俳人)、松瀬青々(まつせせいせい 俳人)、高浜虚子です。画家三人による合作の絵に皆で賛(さん 画の余白に句等を添える)を書き、洋食を食べ、さまざまに楽しんでいます。その様子を子規は短歌にしています。

 
 ふらんすのぱりに行く絵師送らんと画をかきにけり牛ひくにけり 子規


浅井忠の送別会の際に三画家による合作戯画(子規庵寄託資料)

浅井忠は子規への餞別に秋草の水彩画を贈り、子規庵に大きな鳥籠を借りる斡旋をして旅立ちました。
 

「子規庵句会写生図」画・下村為山 賛・河東碧梧桐 (昭和10年(1935)、子規庵寄託資料)
 明治30、31年(1897-1898)頃の子規庵新年句会での盛会の様子を描いたこの図は、昭和10年に「中央美術協会」が、俳句革新記念として限定30部作成しました。掛軸として頒布されたその1幅が平成25年(2013)子規庵に寄贈されました。すべて肉筆のため、画も賛も少しずつ異なる箇所があります。子規を初めとして石井露月、佐藤肋骨、河東碧梧桐、坂本四方太、内藤鳴雪、佐藤紅緑、高浜虚子、大谷繞石、吉野左衛門、五百木飄亭、梅沢墨水、数藤五城、赤木格堂、諫早李坪、下村為山、折井愚哉、寒川鼠骨、福田把栗、山田三子、谷活東、岩田鳴球、松下紫人等(子規から左回り)が参加しています。

 

「歌仲間の顔」(明治33年(1900)頃、松山市立子規記念博物館蔵)
歌仲間の顔を子規がスケッチしています。秀逸なのは、長塚節(たかし)は圭(けい、細長く、先端が尖ってている形)、伊藤左千夫は不成形等ユーモラスに評して描いている事。
第1回蕪村忌句会(明治30年(1897)12月) (松山市立子規記念博物館蔵)
子規庵の客間の縁側での記念撮影、子規は中段の中央に座しています。子規は、与謝蕪村に傾倒し『俳人蕪村』『俳諧大要』等を著し、西洋美術の写生を援用した写生主義を確立しました。これらの成果は、俳誌『ホトトギス』や子規の写生主義に感銘した歌人で小説家の長塚節等が参加し、短歌誌『アララギ』の創刊へと拡がっていきました。
 
俳句雑誌『ほとゝぎす』
明治30年(1897)に、子規の友人で門人でもあった柳原極堂が松山にて創刊。表題は、子規の名に因んで付けられました。選者を、子規、高浜虚子、河東碧梧桐、内藤鳴雪等が担当し、表紙は中村不折等が画、デザインを手掛けました。( 文化探訪「書道博物館」の項を参照の事)同誌は、明治31年(1898)10月、高浜虚子が『ホトトギス』として引き継ぎました。昭和20年(1945)に一時休刊し、また変遷を経て現在も刊行されています。 

 

蕪村忌(明治32年(1899)12月) (子規庵蔵)
西側黒板塀前で撮影。子規は、中央で脇息(きょうそく、肘掛け)にもたれています。

 

蕪村忌(明治33年(1900)12月) (松山市立子規記念博物館蔵)
小園南側の建仁寺垣前で撮影。この年、子規は症状が進み、小園に降りる事が出来ませんでした。(左に見えるのは、浅井忠が世話をしてくれた大鳥籠)

参考文献
1) 正岡子規著『子規全集』講談社
2) 子規庵保存会「子規庵春秋」財団法人子規庵保存会
3) 和田茂樹編『漱石・子規往復書簡集』岩波書店 他

台東区では「台東ぶらり散歩」と題して、パンフレットを作成しています。その6では「正岡子規ゆかりの地(句碑)を訪れる」と題して、子規、そして台東区内の子規の句碑について特集しています。